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長谷川等伯の生涯

~波乱に満ちた72年の生涯~

1000点を超える名品ぞろいの「国宝」指定作品の中でも、常に10本の指に入るほどの人気を誇る水墨画「松林図屏風」。
その作者は「長谷川等伯」。
等伯が亡くなったのが,400年前の慶長15(1610)年。
人生50年といわれた当時において、72年間を生き抜いた等伯の生涯に迫ります。

長谷川等伯の生涯

1、画を志す
【能登時代(~30歳頃)】
等伯が生まれたのは戦国時代の真っただ中、天文8(1539)年。その頃能登国を統治していたのは能登畠山家。同家は室町時代中期に能登を領有し、戦国の世にありながらも代々の当主は着実に国内を治めていました。中でも七代当主義総の頃には全盛期を迎え、居城の七尾城周辺に広がる城下町は経済的にも大いに繁栄し「能登畠山文化」が開花していました。そんな繁栄の中で
生まれた等伯は、七尾の城下町で多感な青年期を過ごし、その豊かな環境が等伯に与えた影響は小さくはなかったはずです。

等伯が生まれたのは画家の家ではありませんでした。記録によれば、能登畠山家に仕えた武士、奥村家の子として生まれ、その後、染物屋の長谷川家の養子になったとされています。
長谷川家の養子となった等伯は、若い頃から仏画を描く画家として活躍していました(この頃、等伯は「信春」という名前を使っていますが「等伯」で統一します)。現在も能登地方の寺院などには等伯の若い頃の作品が残されていますが、細かな描写と鮮やかな彩色が特徴であり、それは養家が染物置であったことから、おのずと色彩感覚が研ぎ澄まされたからかもしれません。

2、耐え忍び、時を待つ
【京都時代①(30~50歳頃)】
等伯に大きな転機が訪れたのは33歳の頃。この年に養父母が相次いで亡くなり、この頃から上洛を考えていたようです。
等伯が生まれた頃は意気盛んだった能登畠山家も、重臣らの勢力争いなどが重なり急速に弱体化。終末の時を迎えつつありました。国内では度重なる戦が起こり、等伯は能登に「見切り」をつけたのかもしれません。
一大決心をした等伯は、妻子を連れて上洛。京都では、実家の奥村家の菩提寺である本延寺の本寺・本法寺を頼り、そこを拠点に活動をはじめます。
それ以後、50歳頃までの等伯の動向ははっきりせず、当時の京都における最大画派「狩野派」に弟子入りしていたとも、堺(現大阪府堺市)に赴いていたともいわれています。その間着々と力を貯え、京都の絵画界にさっそうと登場する機会をうかがっていたのかもしれません。

3、大輪の花を咲かす
【京都時代②(50~60歳頃)】 
時に等伯51歳。大徳寺など、京都の名だたる寺院で次々と作品を描き、京都では等伯の名が徐々に知れ渡っていきます。
時を同じくして、力量・知名度ナンバーワンの画家で、等伯最大のライバルだった「狩野派」の総帥・永徳が急死。等伯が京都の絵画界で表舞台に立つ、大きなチャンスが巡ってきました。
天正19(1591)年、天下人・豊臣秀吉の嫡男・鶴松がわずか3歳でこの世を去ります。悲嘆に暮れた秀吉はその供養のために祥雲寺という壮大な寺院を建立。その内部の障壁画制作を請け負ったのが等伯でした。天下人・秀吉から仕事を任されたことは、絵画界の頂点に立ったことを意味します。能登より上洛して約20年、等伯の胸には万感迫るものがあったことでしょう。
しかし、その喜びも束の間、等伯を奈落の底に突き落とすような悲劇が襲いました。祥霊寺障壁画の完成直前、等伯の嫡男・久蔵が26歳の若さで急死したのです。久蔵は永禄11(1568)年に七尾に生まれ等伯とともに上洛。早くから才能を発揮し、等伯の後継者として将来を期待される存在でした。祥霊寺の仕事でも期待に応え見事な桜を描きましたが、皮肉にも秀吉が最愛の息子を弔うために建立した寺院で、等伯は最愛の息子を失ったのです。その悲しみはどれほどのものだったのでしょうか。
現在、等伯の代表作として有名な国宝「松林図屏風」。この作品は久蔵を失って悲しみに打ちひしがれた等伯が、故郷能登の松林を思い出して描いたという説があります。描かれた松林は、遠くから見ると霧に包まれ静けさそのものですが、近くで見るとその筆使いの激しさに驚かされます。それは等伯の心情の表れではないかともいわれています。

4、最期まで画を探究する
【京都時代③(60~72歳)】
多くの弟子を抱える「長谷川派」の総帥である等伯は、皆を率いる立場上、いつまでも沈んでいるわけにはいかず、その後も数多くの作品を描き続けました。晩年に制作された作品からは、老齢による衰えを感じさせない力強さ、等伯の絵に対する強い思いが感じられます。亡くなる前年の71歳の時に描かれた作品も現存しており、最期まで絵筆を握り続けていたのでしょう。
やがて時代は秀吉から徳川家康ヘと変わり、江戸に幕府が開かれると、72歳を迎えた等伯は新しい都・江戸へと向かいます。人生50年といわれた当時においては相当の高齢で、老体をおしての江戸への旅は大きな覚悟があったと思われます。ひたすら「長谷川派」の今後を思い続けた等伯でしたが、無理がたたったのか、道中で病気になり、江戸に到着した2日後の2月24日、その波乱の生涯に幕が下されました。